建築・土木木材のご紹介
Building · Civil engineering timber
山からの原木を製材し、角材や板材に加工していきます。
加工するにあたり、木1本1本の持つクセを見抜き、機械の音や見た印象と違い、とても細やかな気配りを要する作業を行っております。
お客様の手に届く製品が喜んでいただけるものであるよう・・・。
機械の担い手は変わっても、昔から育まれたこの気持ちを忘れず、皆様からのご注文をお受けしています。
杉・桧(建築・土木用)
材質の特徴として、比較的、雪害・風害が少ないことから、材質は通直性に優れ「クセのない木」として珍重されてきた。
林地の初床(初回の造林地)では早期に成長し、2代目以降は生長も遅くなり、年輪が細かく構造材に向いている。
歴 史
昔話で「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に…」という言葉をみなさんも聞いたことがあると思います。
この柴刈りとは山林に生える草木を刈り取る作業のことであり、林業で行われる下草刈りのことを指しています。
日本は昔話にもあるように古来より林業がとても盛んな国でした。
この島田市も例外ではなく、特に江戸時代に入り盛んとなり、伐採された木材を大井川に流し、運ばれた記録がございます。
その時代にいた紀伊国屋文左衛門という人物を筆頭に、江戸や駿府の豪商たちが、幕府御用達の御用木材としてお城としては江戸城や駿府城、浅間神社など神社・仏閣や国の公共事業であった橋などの材料として使われたそうです。
この江戸時代は、今のような近代的な機械や道具がなかったため、作業は人力で動かす大きなノコギリなどに頼って伐採していました。伐採した後は、平らな林道では木馬(きんま)とよばれる木製の大きなそりを使用し、急斜面では修羅とよばれる伐採した木材をハーフパイプのように並べ、その上を滑らせて大井川まで下してきました。
運ばれた木材は大井川に流して島田市の向谷まで運ばれました。
木材を川に流して運搬することを「川狩り」と呼び、大井川の川狩りは特徴的でした。天竜川や安倍川などは切った木材で筏をつくり流していましたが、大井川では一本ずつバラバラで流す「管流し」という方法で川狩りを行っていました。
大井川は駿府と遠江の国境であったため、幕府の防衛措置などにより架橋、通船が基本的に禁じられていました。いわゆる、川越人足などの川越制度です。
こうして集められた木材は島田市の向谷に集積され、向谷水門や木屋水門をとおり現在の小川港から江戸に運ばれました。
今から145年前の明治3年になると、川越制度が廃止となり渡船が可能になりました。その翌年には、大井川の川狩りも、筏流しが解禁となり、大井川の川端には次第に木材の運搬業者などが増えていきました。
このころになると、御用材の需要もなくなり、サワグミやシラベを原材料としたマッチの木軸生産する製材業が盛んとなり、これを兼業する木材業者が増えてきました。
島田市の木材業界発展に更なる追い風となったのは、それから20年後の1891年明治22年。従来の輸送手段であった海路から、陸路に変わり、東海道線が開通となりました。島田駅を基点に交通輸送が確保され、木材産業が急速に発展しました。
それから7年後、向谷の木材集散地に、大倉組という材木業者が貯水池をつくりさらに多くの木材が運びこまれました。
この大倉組は横井にチップを使用した製紙会社を設立、ここは現在の東海特殊製紙になります。
それから明治の終わり頃には30社以上の木材関連業者ができ、大正に入ると60社まで増えていきます。多くの木材業者は製材業や製函業を兼業し、材木以外にも木材加工で栄えてきました。こうして木都島田市の産業発展は木材関連業の発展と共に歩んできました。